2012年2月18日 (土)

佐渡島(さどのしま)開発記 1

島、平野と開発して来たので、今度は「谷底の村」をつくってみる。

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続く

2012年2月16日 (木)

西暦5402年 筑紫島 開拓史 2

筑紫島の北端、孝昭町でフェリー乗り場の建設が完成。

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孝昭寺と発電施設
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山幸港
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発電施設裏の山道を登ると熊襲(くまそ)寺


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孝昭町東側
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孝昭町を開拓し終えた住民達は、山幸港から次の土地へと向かった。
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続く

2012年2月11日 (土)

西暦5395年 筑紫島 開拓史1

筑紫島(つくしのしま) 年表

西暦5322年 最初の住民が筑紫島南部の浜辺に到着。
西暦5329年 漁村が形成される
西暦5341年 住民が製鉄技術を古代文献から獲得。
西暦5354年 素戔嗚(すさのお)大社のふもとで複数の漁村が合併し「神武町」が形成される。
西暦5368年 工業化の進行
西暦5378年 神武町の西側に工業用漁港「海幸(うみさち)港」が完成する。

大倭豊秋津島(おおやまととよあきつしま)は農園を主体として発展したが、筑紫島では
数多くの浜辺が存在した為、漁業が住民達の生活の糧となった。その後、数多くの漁村が形成され、
やがてそれらが合併して町となった。建速須佐之男命(たけはやすさのおのみこと)の加護もあり、
製鉄技術を得た筑紫島は大倭豊秋津島よりも一足早く工業化していた。

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筑紫島全景

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素戔嗚大社のふもとに形成された「神武町」。西側には「海幸港」

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神武町 西部 工業港湾地帯

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海幸港
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神武町の奥には懿徳(いとく)村と言う小さな集落。

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懿徳(いとく)村には高速入口がある。

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高速は島の北端にある孝昭町までノンストップで行ける。

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視点変わり、神武町の東部。

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神武町から少し離れた場所に綏靖(せいずい)村と安寧村。
綏靖村にはこの島唯一の中学校があり、島民は全員ここまで通う。
また、学校の横には島の反対側まで突き抜けるトンネルが開通している。

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海岸沿いを走って行くと、孝昭町に到着。
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島内の高速道路にあたる「道路」からそれぞれの村/町の「街路」へ入るときは
「関所」と呼ばれる電子マネー式の料金所が設置されている。
筑紫島では南北で神武町と孝昭町が大きく発展し、綏靖村・安寧村などの
小さな集落がこの二町の間に点在している。

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また、島の南部にある神武町周辺には、かつての名残で漁村が散見される。

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神武町を参考に開拓中の孝昭町
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孝昭町では好奇心旺盛な若者達が、外界への窓口としてフェリー乗り場の建設を進めている。
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続く

2012年2月10日 (金)

西暦5395年 大倭豊秋津島 開拓史5

住民達は開拓を続け、島の中腹から再び北上。

開拓前 西暦5384年
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開拓後 西暦5395年
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霊山のふもとから湧き出る水が川となり、

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川は「龍園」と呼ばれる庭園に入る。

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そして人工の運河に運ばれ、畑を潤す。

また、龍園のそばでは初のサッカーチームが生まれた。

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中腹部では村から町へと進化し、サービス業を求める住民達は南へと進んだ。
一方その頃、建速須佐之男命が司る越洲の筑紫島では、南方から流れ着いた
旧日本人達が漁村を形成し、驚くべき発展を遂げていた。

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続く

西暦5379年 大倭豊秋津島 開拓史4

大倭豊秋津島の中腹付近まで開拓が進む。中腹では低地の草原が広がっており
これに伴い畑の規模も大きくなって行った。

開拓前 西暦5369年
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開拓後 西暦5379年
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中腹付近では畑の大規模化に伴って、各ブロックで町内会的な相互補助組織が
形成された。また、農業に飽き足りた若者たちが商業サービスへの就職を希望し
雇用の需給ギャップが発生した。(下画像下部)

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順調に農業地区の拡大が進行していたその時、突如として緑に光る奇怪な
建築物が出現。

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中腹部の住民たちは島の広さを計測し、将来の食料不安を予測し、過去の文明が残した文献を
研究し、植物の光合成反応を利用した発電で動くバイオ食料研究所を設立したのだった。

続く

2012年2月 9日 (木)

西暦5368年 大倭豊秋津島 開拓史3

開拓は島中部にまで進む。

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続く

西暦5360年 大倭豊秋津島 開拓史2

開拓は続く。

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内宮への入り口
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続く

西暦5345年 大倭豊秋津島 開拓史1

西暦4588年 小惑星が地球に衝突し、地表の殆どが海水に浸かる
西暦4600年 外惑星への脱出計画スタート
西暦4650年 全ての人類が地球を脱出・・・したかに見えたが、各地域で
        人類は僅かながら生存していた。彼らは棄民となった。

その末裔である住民達は、古代の祖先のように天照大御神を仰ぎ豊作を願った。
大社のある霊山は聖域とされ、その麓から開拓が始まった。

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島の北部は霊山への入り口となっており、入場者は厳重に管理される。
一宮、二宮、三宮あわせて「内宮」と呼ばれる。

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内宮三宮と外宮一宮は細い一本の道でしか繋がっていない。ここで聖と俗が分けられる。
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外宮。これ以降は俗世界となる。
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続く

西暦5312年 国生み再び

超未来の日本。本土は既に海水に浸食され、日本人は流浪の民となっていた。
それを見ていたイザナギノミコトとイザナミノミコトは、ある南国海域にて
再び国生みを行った。新たに生まれた大八島は、それぞれ
大洲(おおしま)・吉備子洲(きびのこしま)・越洲(こしのしま)の三地域に分けられ、

これらの地域は天照大御神・月読命・建速須佐之男命の三貴神が分割統治する事となった。

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三貴神はそれぞれの地域で大社を建立し、徒歩以外の侵入を拒む聖域とした。

まず大洲の大倭豊秋津島(オホヤマトトヨアキヅシマ)に天照大御神の大社が建った。

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天照大御神は満足した。

続いて、越洲の筑紫島(ツクシノシマ)に
建速須佐之男命の大社が建った。

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建速須佐之男命は満足した。

月読命は、まだ大社を作らなかった。代わりに大地を八咫烏の形にして雲に隠れた。

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日本人の末裔は、まず天照大御神の治める大洲の大倭豊秋津島に流れ着いた。

続く

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